毎夏約30万人を魅了する富士登山 | 富士山エリアの総合ガイド - フジヤマNAVI

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毎夏約30万人を魅了する富士登山

初めて富士山を登った人はだれ?

富士山は噴火を繰り返して、今の姿になっています。噴煙を上げている頃の富士山には、とても登ることはできませんが、噴火がおさまった頃に富士山に登った人がいるかもしれません。その歴史は縄文時代までさかのぼります。富士宮市には千居遺跡や滝戸遺跡などがあり、縄文土器が見つかっています。文字による記録が残っていないので、縄文人が登ったという確たる証拠はありませんが、麓にはすでに縄文時代から多くの人が住んでいたことが分かります。好奇心旺盛な縄文人がきっと、山頂を目指したことでしょう。

富士写真

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聖徳太子が富士山を駆け上がる!?

文字として残る文学的な見地から富士登山の歴史を見てみましょう。藤原兼輔が書いた「聖徳太子伝暦」(917年)では、聖徳太子が甲斐の国から献上された馬に乗り、雲に乗って富士山を駆け登ったという内容が記されています。この伝説がもとになり、富士山頂の山のひとつが駒ヶ岳と呼ばれるようになったそうです。江戸時代には馬に乗った聖徳太子の銅像が奉納されていました。現在は富士吉田市の如来寺に祀られています。飛鳥時代に、しかも有名人である聖徳太子が馬に乗って富士山へ。あくまでも伝承の世界ですが、何だかロマンを感じる伝説ではないでしょうか。

富士写真

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信仰の山

奈良時代の「万葉集」では、人々は富士山を歌で詠んでいます。とても有名なものには、山部赤人の「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」があります。この時代には富士は不尽神と呼ばれ、信仰の対象となっていました。平安時代になると修験道が成立し、道者たちが富士山を修行の場として活動を始めます。末代上人が1149年に富士山頂に大日寺を建て、これによって「富士山信仰」がはじまりました。末代上人は別名、富士上人とも呼ばれ、富士山に数百回登ったと言い伝えられています。

御守護

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江戸時代に栄えた富士講

江戸時代になると、江戸の庶民を中心に「富士講」が栄えました。「富士講」は富士山に登ることを最上の目標とした宗教の団体です。富士講は江戸時代中期から後期に隆盛を極め、富士山は大賑わいでした。現在の富士山駅の東側にある金鳥居から富士山側に少し歩いた辺りは、かつて「御師」の町と言われていました。御師は浅間神社の神職を務めながら富士山に登る道者の案内や宿泊の世話をし、御師の家は宿坊となっていました。道者たちは白い行衣に身をつつみ、北口本宮冨士浅間神社から吉田口登山道で山頂を目指していました。

富士講

富士講では、富士山の五合目より上を焼山と呼び聖域としていました。五合目周辺を結んだ線が「お中道」で、神と人間の境となっていました。

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ブームとなった現代

今、富士登山はブームのひとつになりました。最近ではパワースポットという言葉で言い表されていますが、富士山が持つエネルギーを体感できる富士登山を、イベントとして楽しむ人が増えています。その人気は国内だけでなく、世界各国から登山者が押し寄せるほどにもなりました。夏の2ヶ月間だけで、約30万人もの人が富士山に登っているのです。間違いなく富士山には、地球のエネルギーがあふれています。ぜひともこの夏には、富士山のエネルギーを全身で味わってみましょう。

鳥居

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  • ※本ホームページ内の地図のルートについてはイラスト化した大まかなものです。実際の登山の時には国土地理院の25000分の1の地形図等をお持ち下さい。尚、時期によっては山小屋がまだオープンしていなかったり、閉店してしまっている場合もあります。地元の情報をご確認の上、登山して下さい。
  • ※登山ルート、及び登山口までのバスルートは自然災害等によって閉鎖されたりする場合もあります。必ず事前の情報をご確認下さい。
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