いつもスケートが身近にあった環境
私が生まれ育った北海道の清里町では、元々スケートがとても身近な環境にありました。
小学校では、冬になると体育の授業でスピードスケートをやるんですよ。
小学校3年生のときに転校生が来て、その子の影響で翌年から本格的に始めました。
小学校の頃は、まずは「乗りこなせ」ということで、マイナス20℃という環境の中、長い距離をただひたすら滑ってました。
シューズの紐がカチカチに凍ってしまうほどの寒さがとにかく辛くて…。
元々長距離は苦手でいつも周りに置いてかれてたんですけど、指導者の方の「もうあがれ!」の言葉が悔しくて、最後まで意地になって滑ってましたね。
長田監督との出会いと巡ってきたチャンス
高校2年生の冬。
私が通っていた高校のある釧路で、全日本スプリントスピードスケート選手権大会が開催されました。
私は出場していないのですが、出場選手のあとに一般の高校生も練習する時間がありました。
同じ高校の子は、みんな全身真っ黒なユニフォームを着て練習していたんですけど、富士急行スケート部を率いていた長田監督が私の滑りを目に留めて、声を掛けてくださったんです。
はじめは富士急行の監督って分からなかったので、目の前に急に厳つい人が現れて結構ビックリしたんですけどね。
高校卒業後の進路を聞かれて、辞めようと思っていることを伝えたら、「辞めるんだったらうちに来い」とおっしゃってくれました。
世界を舞台に戦っている選手がたくさんいる富士急行スケート部は、私にとってまさに“未知の世界”。
でも、元々怖いもの知らずだった私は「自分の能力を試せるいいチャンスが巡ってきた!」と思ってました。
周りの人からは「実績が無いのに勇気あるな」と思われてたんですけどね。
自分の潜在能力を信じて、大学に進学したつもりで4年間は頑張ってみたいと思い、決意を固めました。
世界大会に出場してさらに高まった意識
入社した当時は、オリンピックに出るなんてあまり考えていませんでした。
1~2年目はとにかく環境に慣れることがすごく大変で。
でも、世界を見つめている先輩たちと練習を重ねるうちに、自然と自分の気持ちも引っ張られていて。
なんとか3年目に少しずつ先輩たちの足元が見えてきて、世界大会に出場することができました。
初めての世界の大会で、世界の強豪たちと同じ舞台に立ったとき、日本の大会よりもすごく楽しく感じたんです。
会場全体が盛り上がってて、なんだか“お祭り”みたいな感じでしたね。
会場の外でも、ランニングしていると、いろんな方が「トモミ~」って声かけてくれたりするんです。
その雰囲気を肌で感じて「またここに戻ってきたい」って心から思いました。
その後は練習に対する意識も更に高まり、トレーニングに挑む姿勢も変わりましたね。
2度目の冬季オリンピックで獲得した銅メダル
長野オリンピックのときは、2年前から代表の内定をもらっていたので、ピンポイントで調整しやすかったです。
私、実は選考会が一番苦手だったので…。
それをクリアすると気が楽になるんですけどね。
オリンピック本番のときは、とても良い緊張状態でした。
スタートラインに立った時は「思い残すことはない、準備は整っている」という感じで。
聖子さん(※)にはレース前に「普段通りやれば、もう結果は決まってるよ」とも言われたんです。
緊張は誰もがするもので、それを残念な結果にするかは自分次第だと。
あと、会社の方々の応援はすごく嬉しかったですね。
特に同期が応援団長やってくれてて、それを見てたら私も楽しくなってきちゃって。
岡崎コールが耳に残ってて心地よかったなぁ…私の大会みたいな気分になりました。
監督にも「手の内で廻せ!流れはお前に向いている!」っていう言葉をいただいて、すごく安心しました。
これ“長田マジック”って言ってるんですけどね。
周りの人たちの支えがあったからこそ勝ち取れた、みんなの思いが詰まったメダルですね。
※橋本聖子氏
富士急行スケート部に所属していた元スピードスケート選手。
7回のオリンピックに出場し、アルベールビル冬季オリンピックではスピードスケート女子1,500mで銅メダルを獲得。富士急行退社後は、自民党所属の参議院議員として活躍。現財団法人日本スケート連盟会長。
「ママさんアスリート」としてオリンピックを目指す
2007年に結婚、2011年に長女を出産しました。
出産後もオリンピックを目指すことは、産む前から決めていました。
ただ、育児とトレーニングの両立は、時間が足りなくてとても大変でした。
睡眠不足になったり、母乳をあげているから筋肉が付きにくくなってしまったり、いろいろなことを経験して、いろいろな反省点がありますね。
これもまた良いチャレンジをさせていただいたと思っています。
これから”ママさんアスリート”になるという人がいたら、いいアドバイスが出来るんじゃないかなと思います。
スケートよりも大事なものが出来たのも引退するきっかけ
本当は続けられるのであれば、”ママさんアスリート”としてまだまだスケートを続けたいという気持ちがありました。
6度目のオリンピックに行きたかったですしね。
今までにもいろんな選択肢があったけど、いつも一番はスケートでした。
でも、今は娘が一番というのが正直な気持ち。
それまで娘に親らしいことを全くしてあげられていなかったので、こらからは娘のために時間を使おうと思ったんです。
「スケートよりも大事なものができた」というのも引退するきっかけの1つですね。
氷と戯れる楽しさを多くの人に伝えたい
スケートは小さい頃からごく普通に私の周りにあったもの。
誰もが簡単にできる競技ではないけれど、なかなか上達できない悔しさが私に火を付けましたね。
でも、できないものが自分のやり方によってできるようになる、スケートでいえばどんどん速く滑れるようになる喜びはとても大きなものでした。
やったことない人でも、まずはリンクにあがって滑ってみてほしいです。
滑れるようになるまでは時間がかかるかもしれないけど、氷と戯れて、氷とお友達になってほしいです!
あとは…一番オリンピック狙いやすいですよ。
頑張ればオリンピックに出れちゃうかも!
もっと日本全国にスケートを広めたいなです。
とにかくたくさんの人に体験してもらえたら嬉しいです。
富士山はいつも見守ってくれてる家族みたいな存在
日本一の山『富士山』、初めて間近で見たときはあまりの大きさに圧倒されましたね。
スケートは孤独なスポーツです。
思うようにいかなかったときは、よく富士山に問いかけてました。
「私、大丈夫かな?」って。
すると自然にパワーがみなぎってくる感じがするんです。
そのパワーを味方に付けて、世界に飛び立っていこうと思えました。
ちょっとめげそうになったときでも、富士山を見ると吹っ切れましたね。
いつも見守ってくれている、いわば家族みたいな存在でもありました。
やっぱり、雪をまとった冬の富士山が好きですね。
空気がピシッと締まっていると、身が引き締まる思いでした。
練習場だったコニファーフォレストのスケートリンクから見る富士山は、特にお気に入りです。
練習の休憩中にボーっと眺めてました。
入社してから20数年間を過ごしてきたので、思い出もたくさんあります。
今でも、山梨に行くとき高速道路から富士山が見えると「あぁ、帰ってきたな…」って思います。
本当に馴染み深い場所ですね。
岡崎朋美さんのプロフィール
岡崎朋美(okazaki tomomi)1971/9/7
元スピードスケート選手。北海道出身。
高校卒業後、富士急行に入社しスケート部に所属。
冬季五輪に日本人女性選手として最多の5大会連続出場を果たす。
1998年の長野冬季五輪では日本女子短距離界初の銅メダルを獲得し、朋美スマイルで一躍人気者に。
結婚・出産後も「ママさんアスリート」として活躍。
2013年、ソチ五輪代表選手選考競技会を最後に現役を引退。